2018-2月号 FEBRUARY
特集03 みんなのけんちく
本特集では「みんなのけんちく」と題して、共同設計による建築の戦後日本における展開について振り返る。ここで言う「みんな」とは、建築家をはじめとする、設計に参加するさまざまな関係者を指す。時代の移り変わりのなかで「みんな」の範囲や意味は変化し続けたが、設計者/利用者というような主体/客体の二分法が失効し、多様な主体の関係性が重視される現在においては、それはどのようにあるべきだろうか?
ここでは、共同設計を建築家の特権性を喪失させるものとして嘆くことなく、あるいはただ大勢の人に支持されればよいというポピュリズムに陥ることなく、新たな設計論を生み出す契機としてポジティブに捉え直し、現代の建築が取りうる新たな可能性を模索したい。以下では、特集の前提となる「みんなのけんちく」にかかわる試みの歴史を概観する。
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1945-1970:
国家主義への反省としての「みんなのけんちく」
終戦を機に国家主義に対し批判的な立場をとった戦後民主主義の思想と共振し共同設計を旨とするべきだという意見が若い世代を中心に立ち上がる。「建築の民主化」を掲げたNAU設立(1947)や、グロピウスのTACをモデルとした山口文象率いるRIA設立(1953)はその象徴である。
民衆論争や伝統論争の盛り上がる1955年、当時の若手トップ建築家であった前川國男、坂倉準三、吉村順三の3名の共同設計による「国際文化会館」と、官庁営繕に所属する若手建築家ら百名超の設計チームによる共同設計が試みられた「総評会館」が竣工する。後者は設計組織体制と建築デザインの民主化を企図したものであったが、多くの意見を取り込むことで折衷主義的な凡庸さに陥ってしまったとされる。
他方、同時代に活動を開始した東京大学丹下研究室は岸田日出刀の庇護のもと、巧みなチームワークにより構造や設備、交通など諸課題を解決しつつ形態を美しく統合した「国立代々木競技場」(1964)のような傑作を実現させ、丹下健三というスターアーキテクトを生んだ。だがその後、日本初の超高層をめぐる競争では海軍でのマネジメント経験を活かした池田武邦率いる山下設計の若手チームに敗れ、以後複雑な人工物としての超高層ビルの設計はよりアノニマスで柔軟な民間組織設計事務所がリードする。
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1970-1995:
大衆による異議申し立てへの対応としての「みんなのけんちく」
第2次全国総合開発計画の策定(1969)を契機に国土レベルで工業化が本格化する過程で、公害問題などに対する異議申し立て運動等に端を発し計画や設計の主体性が問い直されていく。都市計画の領域においては1980年に「地区計画制度」が導入され神戸、世田谷などの先進地で条例が制定され「まちづくり」と呼ばれる新しい動きが生まれた。こうした展開は人文思想における知識人による戦後民主主義から、大衆を重視する思想へと移行する過程とも連動している。
こうした動きに建築が具体的に応え始めるように見えるのは1985年ごろである。初めて公共施設の設計に挑む若手建築家であった長谷川逸子は住宅設計での経験や当時医療で提唱され始めた「インフォームド・コンセント」にヒントを得てコンペで選ばれた「湘南台文化センター」(1990)の設計に際して自らの考えを直接市民に伝えながら設計を行うことを提案し、以後それを自らのスタイルとする[インタビューp.003]。またクリストファー・アレグザンダーが自ら提唱する理論「パタン・ランゲージ」に基づいて「盈進学園東野高校」を実現したのも1985年であった。その後はバブル景気を迎え、市民参加の機運よりも商業主義が個人の個性を競う機運が前景化し、アレグザンダーの成果に対して凡庸なプレモダン回帰であるという批判もなされた。
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1995-2020:
透明化した先の「みんなのけんちく」
バブル景気を背景にした経済偏重の開発により建築・都市計画分野における「みんなのけんちく」をめぐる議論は一時下火になった一方で、「World Wide Web」の登場等を契機として、情報空間における議論が起こり始める。情報分野におけるLinuxやWikipediaのように、ネット技術の発展に伴って社会に分散する"非専門家"の集合知により創造的な設計が生み出される事例も見られる。こうした動きと連動しながら、人文思想の領域では、東浩紀による『一般意志2.0』において、情報技術によって可視化される人々の集合的無意識を基礎とした、新しい民主主義のあり方について議論されている。
一方で、1990年代前半のバブル崩壊以後、豪華な公共施設に対する批判やゼネコン・政治家の汚職問題を契機として、ハコモノ批判が寄せられる。1995年の「せんだいメディアテーク」コンペでは設計者の選考過程が最後までテレビ中継されるというように公共施設の整備プロセスにおける市民への透明性が重要視された。
2000年代以降は「説明責任」重視の風潮が加速し、設計者選定に際しては実績や提案の評価における公正性がより重視され、行政が競争入札によらずに任意で決定した相手と契約を締結する随意契約が一層難しくなり、プロポーザルにおいては「市民参加・協働による設計」を謳うことが当たり前になった。
そのような政治的状況の変化に最も意欲的に応えたのが新居千秋による「大船渡市民文化会館・市立図書館」(2008)と野沢正光+山下設計による「立川市庁舎」(2010)であろう。「大船渡」では合計55回にもおよぶワークショップが開催され、もともとは市民ホール機能であったプログラムに図書館機能を加えるとともに、意見をもとにして当初提案された形態を積極的に変型させ、最終的に三陸のリアス式海岸のような複雑な立体を導いた。「立川」では行政側の提案によって卯月盛夫を委員長とする「市民100人委員会」が組織されコンサル選定、基本構想策定から市民との協働が行われ、設計者選定の審査過程では市民とのワークショップの内容や評価も審査員に対して公開された[インタビューp.012]。
また、こうした近年の展開に伴い、意思決定のプロセスとして模型により設計履歴を残す共同設計の事例も見られる。伊東豊雄・乾久美子・藤本壮介・平田晃久の共同設計による「陸前高田みんなの家」(2013)では、後に建物を管理することになる女性との対話を経て建築家同士が議論し、統合案が作成された。また、藤村龍至・工藤和美および東洋大学ソーシャルデザインスタジオの共同設計による「鶴ヶ島太陽光発電所環境教育施設」(2014)では、大学院生10名が提案する複数のプロトタイプに対する住民投票と意見交換を繰り返して設計条件を洗い出すとともに、どれが統合案としてふさわしいか、検討を繰り返して統合案が作成された。両者ともに、プロトタイピングとフィードバックの反復を徹底するという点では共通しているが、前者では複数の有名建築家の協働によってもたらされるデザインの飛躍ないし被災地における象徴性の獲得が重視されているのに対し、後者では、設計主体の範囲を建築家以外の地域住民や一般来場者にまで大幅に広げ、プロジェクトを取り巻く関係性を可視化しながらフィードバックを行うという集合知的な設計プロセスそのもののデザインが主題となっている。
本特集では、このような歴史的経緯や近年の動向を踏まえながら、その歴史の転換点に位置するプロジェクトの当事者である長谷川逸子氏や卯月盛夫氏、インターネット黎明期における「みんなのけんちく」を模索した本江正茂氏へのインタビューおよび、都市計画や設計論をはじめとする他分野の歴史的な展開を並列することで、建築にとって古くて新しい問題である「みんなのけんちく」のあり方について考える。
[藤村龍至・門脇耕三・石榑督和・市川紘司・酒谷粋将・中島弘貴・吉本憲生]
特集04 共感の時代の専門家の社会参加
本特集では、SNS等のソーシャルメディアの台頭とともに、世論が新しい力を得た現代社会における、専門家の責任境界と社会での振る舞い方に焦点を当てる。「ポスト・トゥルース(ポスト真実)」等の新語に見られるように、SNSの普及に伴い、感情に訴えかける共感ベースの意見が世論形成に大きく寄与するようになり、時に客観的な事実さえ覆すようになった。建築の成立に対しても、利用者や周辺住民に限らない一般市民のインターネットを介した意見が、行政手続きを経た意思決定を覆すほど強く作用するようになりつつある。こうした新しい力学は、社会的な出来事に対する一般市民のとらえ方のみにかかわるのではなく、出来事への専門家のかかわり方、ないし専門家の意見の公開の仕方にも大きなかかわりを持っている。
例えば、2012年に国際デザイン・コンクールが行われた新国立競技場の建築プロセスにおいては、建設費高騰をめぐる問題が明るみに出るにつれ、SNS上で審査過程や設計意図に対するさまざまな憶測が行き交った結果、最優秀賞を獲得したザハ・ハディド・アーキテクツによる提案が白紙撤回される事態となった。また、豊洲新市場では、一部の有識者とされる人物の必ずしも正確とは言えない憶測に端を発して世論は動揺し、大きな混乱がもたらされた。これらの公的な建築プロジェクトに見られた混乱は、有識者会議や設計者選定の枠組みに携わる専門家の責任のあり方を問うものでもあった。
科学技術社会論においては、科学における専門知は、絶対的な真理としてあるものではなく、ジャーナル共同体による査読システムを通じた境界画定作業によって絶え間なく更新されるものであるから、常に「つくられつつある科学」であると形容される。
他方、受注生産を基本とする建築物は一回性が強いプロダクトであり、条件がまったく同一のプロジェクトは存在しえないことから、建築も同様に、その都度ごとの専門知の形成を必要とする側面を持つ。こうした不確定性を孕む建築の、特に公的なプロジェクトでは、意思決定の場という意味での"公共空間"において、専門知による科学的妥当性のみならず、市民参加による社会的合理性にも基づいた意思決定が不可欠となる。
また同時に、当該プロジェクトにおいて、専門家が何をどこまで行うのか、という関与のあり方に関する判断基準そのものも、常に更新が必要となる。従って、公的な建築プロジェクトへの専門家の関与のあり方、およびそこでの専門家と市民の関係とは、その場で専門家が社会に対する責任をどこまで果たすべきなのかという、「責任境界」のデザインに帰着する問題であると言える。
こうした問題意識のもと、本特集ではまず、科学技術社会論を専門とする藤垣裕子氏へのインタビューを通して、専門家の社会参加のあり方に関して俯瞰的な視座を得る。次いで、公共施設の設計者選定委員会等において委員長として携わった経験を持つ複数の専門家へのインタビューを通して、専門家が公正に振る舞うと同時に、いかに価値創出に寄与できるのか、その可能性を探る。
設計者選定における「プロポーザル方式」の導入(1994)以来、市民への説明責任を果たしつつ、建築の質を向上させる努力は積み重ねられ続けてはいるが、現状の枠組みのなかにもさまざまな専門家の振る舞い方がある。その背後にあるそれぞれの考え方を明らかにし、相対化することで、専門家の社会参加のあり方や、公正さと創造性を兼ね備えた設計者選定の枠組みについての示唆を得る。
そして最後に、市民協働が前提となり、専門/非専門の境界が揺らぐ現在、これからの専門家の責任境界はどのようにデザインされるべきなのかを、若手実践者による報告を通じて考える。
[藤村龍至・門脇耕三・石榑督和・市川紘司・酒谷粋将・中島弘貴・吉本憲生]
[目次]
002 |
特集03 みんなのけんちく |
003 | インタビュー 「湘南台文化センター」(1990)の 設計プロセス─ 権威主義が崩れ始めたころ 長谷川逸子 聞き手:藤村龍至+門脇耕三+吉本憲生 |
007 | 年表解説─ 設計論編 設計論の系譜にみる「みんなのけんちく」 酒谷粋将 |
008 | 年表 「みんなのけんちく」年表 |
010 | インタビュー 「立川市庁舎」(2010) 市民100人で学びながら建替えに参加する 卯月盛夫 聞き手:藤村龍至 |
012 | インタビュー 「みんなの建築」(1993)から みんなのワークプレイスへ 本江正茂 聞き手:門脇耕三+市川紘司 |
014 | 年表解説─ 都市計画・まちづくり論編 まちづくりと「みんなのけんちく」は 接続可能か? 中島弘貴 |
015 |
特集04 共感の時代の専門家の社会参加 |
016 | インタビュー 新しい価値の創造と公共性の せめぎ合い─科学技術社会論から考える 藤垣裕子 聞き手:門脇耕三+中島弘貴 |
018 | 設計者選定での審査員の役割を考える 公共建築は実験しなければ意味がない 布野修司 聞き手:藤村龍至+石榑督和+中島弘貴 |
019 | 公正な審査のための仕組みづくり 深尾精一 聞き手:門脇耕三 |
020 | 対話から新しいものをつくる 門内輝行 聞き手:藤村龍至+中島弘貴 |
021 | 現場からの報告 「委員会アーキテクツ」による公的デザイン 田中智之 |
021 | 専門家の前にひとでありたい 崎谷浩一郎 |
022 | まちづくりのパートナーとして 鈴木亮平 |
022 | 漁村の公共性 佐藤布武 |
000 | 第2回 みんながいいよね TAO |
023 | 私たちにとって「技術」とは?─ある型枠屋のつぶやき 山﨑康造 |
024 | 稚拙な誤読 半田悠人 |
024 | 建築─色彩の崩壊と再生 加藤有里 |
025 | 「フィクション」から拓かれる「リアル」:課題から都市と社会に接続する 中田寛人 |
025 | 歴史の鏡面 あるものとないもの 楊光耀 |
026 | 近江から考える設計演習 川井操 |
028 | 「コロキウム構造形態の解析と創生」が目指す先 熊谷知彦 |
030 | コンクリートの審判台 本橋仁 |
030 | マンションポエムと建築の語り 大山顕 |
031 | 建物と食べ物 小西泰孝 |
031 | ベトナムの郊外で住宅を考える 西澤俊理 |
032 | 特集を読んで─歴史のなかの『建築雑誌』 五十嵐太郎 |
032 | 編集後記 会誌編集委員 |